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平成3年(1991年)11月、創業150周年記念式典を挙行し、
記念小冊子を刊行しました。

 

「創業150周年の感謝にかえて」
〜伝統と技の継承〜

 

     聖酒造株式会社

  代表取締役 今井 和夫

 江戸時代末期の天保12年(1841年)3月、当家の初代今井傳兵衛は前橋藩川通り
二十六ヶ村の大惣代を勤める今井善兵衛家より分家し、創家・創業いたしました。

 生糸商・質商として力をつけ、まもなく酒造りを始め、以来幕末・明治・大正・昭和・
平成と時代が移り変わる中、6代・150年にわたり酒造りの技と伝統を継承してまいりました。

 

 当社の北訳Kmにある木曾三社神社には木曾義仲の遺臣伝説があり、今井家の先祖
はその四天王の一人である今井四郎兼平に溯ると伝えております。神社の境内に湧く清
冽な泉を用いて酒造りを行ってまいりました。当時は一つの地域に造り酒屋と味噌・醤
油屋は一軒ずつあったといわれ、当家も年間300石程度(現在の一升瓶で約3万本)
を近隣に売りさばいておりました。

 戦前までは清酒「木曽川」の銘柄で愛飲されておりましたが、戦時中の企業整備令に
より一時期清酒の製造の中断を余儀なくされました。その間アルコールの製造を行い、
戦後まもなく「聖焼酎」を発売し、昭和30年に清酒の製造を再開して清酒「聖冠」
を発売いたしました。そして現在まで「関東の華」を始めとする“ふるさと上州シリーズ”
の発売を行い、またリキュール・果実酒及び奈良漬の製造販売も行っております。

 

 幕末以来幾多の時代の変遷を経る中で、ともかくも連綿として酒類の製造を続けて
こられましたのも、そして今日の業容にまで成長することができましたのも、ひとえに
皆々様の永年にわたるご愛顧お引き立てのお陰でございまして、心より感謝いたします。

 

 今後とも「品質第一・信用第一」の社是のもとに、“生活にゆとりと潤いをもたらす”
商品づくりに励んでまいりますので、よろしくご指導ご鞭撻の程お願い申し上げます。

 

「聖の酒 むかしがたり」  〜伝統と技の継承〜

 

「・・・・・・懐かしいのは日本の家族制度である。家族制度には数々の弊害があるが、
私の家族も、私の外戚の多くもこれを長く美しく保持してきたのである。今、日本国は
制度としての家族制度を失った。私は今習俗としての家族制度に殉じようとしている。
私の一生は古屋の守(ふるやのもり)である。」(今井善一郎著「習俗歳時記」より)

 

 

1.源平の興亡

 

 今から約850年ほど前、源平の争乱の中、木曾義仲は源氏の棟梁である源為義の
次男
帯刀先生義賢の子として、久寿元年(1154年)武蔵国大倉に生まれた。幼名を
駒王丸という。義賢の長兄義朝には義平,頼朝、義経等がおり、義仲とは従兄弟である。
しかし父義賢は武蔵国比企郡大倉の館で、義平の突然の襲撃に遭い撃ち殺されてしまう
のである。このとき義仲はわずか2歳であった。難を逃れた義仲は母小枝御前とともに
信濃国木曾谷の中原兼遠のもとに匿われ、20余年をここで過ごし、木曾義仲と名乗る。
兼遠の子には後に木曾の四天王と言われた樋口次郎兼光や今井四郎兼平がいて、また
巴御前もおり、ともに
乳母子(めのとご)として育った。

 治承四年(1180年)、義仲は以仁王(もちひとおう)令旨(りょうじ)を受け平氏追討の兵を挙げた。北陸道
を攻め上った義仲は、火牛戦法で有名な「
倶利伽羅峠(くりからとうげ)の合戦」などの戦いに勝ち進み、
見事上洛を果たすのである。征夷大将軍に任ぜられ「朝日将軍」と称された義仲では
あったが、後白河法皇の政略と策謀の中で次第に孤立していく。ついに頼朝の命による
範頼・義経の軍勢と戦い、近江国粟津原に果てるのである。

 「平家物語〜木曾最後〜」によれば、追っ手を逃れ兼平と二人だけになった義仲は、
粟津の松原の深田に馬の足を取られ身動きできなくなったところを討ち取られて
しまう。これを見届けた兼平は馬上より太刀のきりっ先を口にくわえ、逆さまに飛び降りて
自害したという。元暦元年(1184年)1月20日、義仲31歳、兼平33歳であった。

2.箱田伝説

 

 当社の北約2Kmにある木曾三社神社は、元暦元年(1184年)の創建と伝えられ
ている。木曾義仲が篤く崇敬していた信濃國筑摩郡の三座である岡田神社、
沙田(いさごだ)神社
そして阿礼神社を義仲没後、その遺臣である今井、高梨、町田、萩原、諸田、串渕そして
小野沢等がこの地に遷して祀った社である。

 中世以降、縁のある武将の崇敬も厚く、関東管領上杉憲顕の神田寄進や上杉謙信の
誓書奉納が伝えられる。白井城主長尾氏を経て、徳川幕府となっても歴代の厩橋城主の崇敬も
厚く、社殿の修復や社地・扁額の寄進も数多く行われている。郷土カルタ
(橘陰郷土カルタ)は次のように語っている。

 「木曾義仲の没後、その遺臣等は一時木曾谷におりましたが、頼朝の詮議が厳しい
ため、木曾は決して安全な隠れ所ではありませんでした。この時木曾氏の信仰していた
三社の神官である高梨南学院という人は三夜続けて不思議な夢を見ました。それは早く
東の安全な地に遷せよという神託でありました。そこで遺臣等は御神体を七重の箱に収め
て東国へと旅立ちました。和田、碓氷の峠を越えて、利根川の辺りまで辿り着いたとき、
ある平和な村がありまして、そこに神を祀ろうとしました。土地の人が怪しんで、この
箱は何だと尋ねますと、ただの箱だ、箱だとのみ答えたそうです。今その土地を箱田と
申します。しかし神のお告げはさらに今一度ここを立ち出るようにと言うことでした。
今度は半日にして利根川の東岸の山中にある清い泉の所につきました。ここで人々は一
休みしましたが、そのとき御神体の箱をとある石の上に下ろしました。すると不思議な
ことに人々が再び出かけようとしたときに箱は石に固くついてしまって動かなくなって
しまいました。人々が大騒ぎして持ち上げようとしましたが無駄でありました。そして
ここに祀られたのが今の木曾三社神社であります。今度も里人がいぶかって尋ねると
いつも、何でもござらぬ只箱だ、とのみ答えましたのでここにも箱田の村ができました。
今でも神社の前に高梨氏の石像と御腰掛石があります。遺臣達はここに土着して四方に
広がっていったのだと言われています。」(今井善一郎著「橘陰郷土読本」より)

 

3.箱田の城

 

 赤城山の南西麓の裾野が長く広がり、利根川の流れにその最先端の崖が洗われる小高い
丘の上に箱田城跡があり、現在は渋川広域圏の老人休養センターが建っています。
箱田城は戦国時代、白井に城を構えていた上野守護代長尾氏の支城として造られたようで
あります。真壁城、八崎城とともに白井と厩橋との繋ぎの役目を果たしていました。我々
の先祖はその当時普段は農業にいそしみ、いざというときは白井衆として城に立て籠も
ったと思われます。今井四郎兼平より9代目の兼久は木曾明神の清泉を箱田城の北に引
き、今井用水または信濃堰(しのせき)と呼ばれました。後にこの用水が酒造りの仕込
み水に使われるのです。白井長尾氏が上杉氏とともに衰え、武田、織田、北条氏と勢力
圏が目まぐるしく変わる中、天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原征伐により白
井城は落城し、箱田の城も命運をともにするのでした。そしてその後、関八州は徳川氏
の支配下となり、新しく厩橋がこの地方の政治の中心地となっていくのでした。

 

4.関東の華・厩橋(前橋)

 

 関ヶ原の戦いの後、江戸北辺の守りの要として厩橋城(後の前橋城)を重要視した徳
川家康は、三河以来の譜代の重臣酒井重忠に「汝に関東の華をとらす」といって入封さ
せました。以後酒井氏は9代150年にわたり前橋の地を治めます。特に大老にまでな
った4代酒井雅楽頭忠清は下馬将軍として有名です。

 酒井氏が寛延2年(1749年)姫路に移封され、替わって松平氏が幕末までこの地
を治めます。北橘地内の村落のほとんどは前橋藩領としてその治下に入っていました。

 今井家は18代兼義より酒井家に出仕し、数代にわたり家臣となります。姫路移封に
際し、21代文吾衛門は孫の駒右衛門を連れて姫路に移住してしまいます。そのため
22代平六は帰農して同族の今井伊左衛門家から養子を迎え、23代善兵衛友治となります。

 友治は寛政10年(1798年)以来松平氏の内用才覚を仰せつかれます。文政3年
(1820年)には御用達となり、また同時に村名主役となります。友治の長男である
24代善兵衛兼重は文政9年(1826年)家督を相続し、御用達および村名主役
となります。また永代苗字帯刀を免ぜられ、直支配を仰せつけられます。さらに文政12年
(1829年)から天保4年(1833年)までの間前橋藩川通り二十六ヶ村の名主惣代
を務めました。

 

5.新屋敷に創家

 

 今井傳兵衛家の初代となる榮二郎は今井善兵衛友治の次男として寛政5年(1793年)
生まれました。この頃は天明・天保の天災により農村は疲弊し、飢饉や打ち壊しなど
が続く騒然とした時代でした。しかし今井家は友治の才覚により着実に力をつけ、
傳兵衛は渋川に生糸商いの店を任されます。そして傳兵衛長男の榮三郎を渋川の吉田家の
養子とし市左衛門を名乗ります。さらに三男和四郎を隣家であった堀口家の養子とし
吉右衛門を名乗ります。この両名は「吉市・堀吉」の判の鉛銭を作り、本家の「今善」の
鉛銭とともに幕末のこの地域における貨幣流通の一翼を担いました。

 榮二郎は傳兵衛を名乗り、妻、次男、三男そして長女を伴い箱田の地に戻り、新屋敷
を作り、同時に名主役を務めます。そこは本家と箱田城跡の間の梅林が広がる高台で
あり、屋敷を切り開くことに同意を求める村役人宛の定書が当家に残っており、そこに
記載されている天保12年(1841年)を創業・創家の年としています。

 

6.酒造りの始まり

 

 傳兵衛の死後、次男、長女と相次いで亡くなり、弘化2年(1845年)四男の由三
が家督を相続します。その当時、地味の乏しい赤城山麓一帯は畑作が多く、養蚕が広く
行われていました。安政6年(1859年)の横浜開港により生糸の値段が高騰し、養蚕業
がいっそう発展します。それまでの前橋の町は松平氏の治世になったものの、
利根川の洪水による前橋城本丸の崩壊により城主は武藏国川越に移ってしまい、以来
約100年間寂れる一方でしたが、この前橋を蘇らせたのが横浜開港による生糸景気でした。
これによって財力を蓄えた生糸商人達の尽力により、前橋城が再建され、
今日の前橋発展の礎となりました。

 2代由三は本家に倣って生糸商・質商を営み次第に力をつけ、木曾三社神社に湧く
清冽な泉と小作米を用いて酒造りを始めます。(続く)


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